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タマラの日記

インディゴ世代より上のおばさんです。こんな年になって目が覚めるとは思ってもいませんでした。本当に生き方変えれるのかなあ?ウギャ―!

扉が開いてきたなあ

今期見たドラマの主観を交えて語るいまの自分。

 

覚醒とは進化(深化)しつづけること。

ということが目と耳に障害がある少女・海を通してどんな大人も愛らしさ溢れる人間であるという観点から描かれた「奇跡の人」(岡田惠和オリジナル脚本)は実際に《覚醒》という言葉も極さり気なく盛り込まれていて、見事すぎた。もう一本、「真昼の悪魔」(原作/遠藤周作)は迷える子羊の観点から描かれてあり一見、深夜の陳腐系のようでいて、意外にも心に残った。

 

主人公の葉子は罪悪感を感じてみたくて病院というステージで罪に手を染めつづけている人間で自分を悪魔だとしている。奇跡~の登場人物たちも要は迷える子羊であるけれど出口はあるのだ、といった爽やかさがある。

葉子の場合は罪悪感とは?という迷うための迷路の入口が最初から閉ざされている。罪悪感のなかで迷うのではないのだ。さ迷っているという意味では迷路のなかなんだけど、己が持つ問いの扉を叩いて叩いて、入ったと思ってもその向こうに何も無く、また裏側から扉を開けてくぐっての繰り返しといった虚無感。

 

これは目と耳に障害を持って生まれた海と似て全く異なると思った。

認識しようにも出来なかった扉があることに気づき、やっとやっと開けた先に感じられる全てが拡大していく感覚。実際にあった演出で正面から吹いてくる風を受けて踊りだしていくように走り出すのが印象的だ。

 

両者(ドラマ・人物)の間には無限拡大と無限ループの違いがある。

原作となるものが描かれた時代が反映されているのだろう。

 

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本当に覚醒し 歩き出そうとするとき

そこは覚醒した世界なのだから見たことがないはずだ

見えないままに扉を開けるのに時間もかかっただろう

なぜなら 扉 そのものが見えていなかったのだから

だがひとたび扉の存在に気づき 開こうとし 半歩でも前進して

その全ての計らいの風を全身全霊で感じたら

ある欲求の光を自らの内に感じずにはいられないだろう

人 それを 創造 という

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本当に○○ならば○○のはずだ

とのフレーズを複数人の方が書かれているのを一度期に見かけて

問題意識に上がってきたので、ありがた~く向きあったときのポエムw

 

 

大好きな友だちがいても、職場でちゃんと可愛がってくれる人がいても、いろんなことを楽しんできた自覚があっても、何かを広げたいとするときに会っても会っても出会っている感じがしない、やってもやっても開かれていく感じがしないという虚無感を長く抱えていた自分にとって、葉子の虚無感は自分のフィールド内に置き換えはするが解る気がする。

 

そして海が扉を開いて走りだす感覚も。

それはつい最近のことではあるけれど。

インディゴチルドレンと呼ばれる世代よりいくつか上にはみ出している自分が、今更目が覚めるとは思ってもいなかったけれど。

 

思えば、この長い虚無感は 「全ての計らい」を知らぬがゆえの絶対的信頼感の完全に反対側だったと思う。

 

しばらくのあいだ静かに充ちてくる至福を感じていたが、今はもう叫びだしそうなくらい「それ」で爆発しそうなんである。

 

そこに多くの人・生けるもの・生み出されたもの・現象が関わってくれていた・いるであろうことが幸せでたまらない。

 

そしてこういったことを書いている今も楽しくてしようがない。

 

 

ウギャ―――――――――――――――――――!!!!(叫んだ)

 

 

とはいえまだまだ何も変わったようには見えない日常でした。